言葉をどうとらえるか 西武の広告から感じたこと

少しタイミングが遅いような気もするが、西武が出した例の広告について思うことがあったので文章にしておきたいと思い、PCの前に座っている。きっと新しいことはなにも書けない。二番煎じまみれだろう。それでも自分の、広告を目にした時のモヤモヤとそれを批判する内容の発信を見た時のモヤモヤ。この二つの一見矛盾するこの感情を文章化して整理しておきたい。

 

自分の思ったことをすごくシンプルに抽象的に言うならば

「(広告の)内容に賛同した部分も違和感を覚えた部分もあったが、それ以上にこの広告に対する一部の批判的意見にモヤモヤする。」

ということになると思う。だから、今になってこんな未練たらしく文章を書いているのだ。

なぜ広告自体より、批判にモヤモヤしてしまうのか?それをすぐ言葉にするのは難しい。ちなみにここでいう一部の批判というのは「すべての批判」ではなくて、批判の中の一部だ。的を射た批判と思うものもある。しかし、批判することの100倍、意図することを100%伝えられるようなものを作ることのほうが難しいと思うから、批判する前でもした後でも、一回落ち着いて自分がそこから何を感じたか?考え直してみるのもありなのではないかと思ったのだ。

少し話が逸れてしまっているので、そもそも私が広告を見てどこに違和感を覚えたのか?ということについて書きたい。

 

「女だから、強要される。

 女だから、無視される。

 女だから、減点される。

 女であることの生きづらさが報道され、

 そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。」

 

ここまで読んだとき私は正直今まで理由がわからないままに感じていた居心地の悪さの正体に気が付いたような気がしていた。細かい言葉選びではなく、ニュアンス・感覚として、女としてここに書かれていることは私が「女性」に関して報道されるたびに感じていた違和感の正体なような気がして、はっとした。

これは私の感じたことで、家庭環境が影響しているのだと思う。

生まれて22年間、親から「女の子らしくしなさい」「女なんだからそんなことはするな」と、女を理由になにかを制限されたことも、違和感を感じたことも幸いなかった。多感な12~18歳を女子校で自由に伸び伸びと生活させてもらったこともあって、男性と女性との間に何か大きな隔たりがあることを、教科書や数字上で理解しながらも正直身をもってはわからずに生きてこれたのである。

そんな中、テレビで「女性」の権利が侵害されていること、まさしく「女だから」受ける理不尽な仕打ちが報道されるのを見て、なんとなく肩身が狭いような居心地の悪さを覚えていたのだ。

自分はこれまで自由に生きてこれたと思っていたのに、そうではなかったのかもしれない。生きづらいですよね?と間接的にメディアから語りかけられるたびに「生きづらい女という性別」という記号を意識させられていたのかもしれない。無意識に その括りの中に自分を押し込もうとしてしまっていたのかもしれない。

『そのたびに「女の時代」は遠ざかる』

いろんな解釈ができる言葉だと思う。正直、「女だけが優遇される時代」とも読める。でも、わたしは最初にこれを読んだとき、この女の時代というのはわたしが求める、自分が「女」であることを意識しなくても自由に生きられる社会である、と解釈した。だから、この文章を読んだときに自分のモヤモヤの答えを見つけたような気持になったのだ。

このあと、この広告は以下のようにつづく。

 

「今年はいよいよ、時代が変わる。

 本当ですか。期待していいのでしょうか。

 活躍だ、進出だともてはやされるだけの

「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。」

 

「時代の中心に男も女もない。

 わたしは私に生まれたことを讃えたい。

 来るべきは一人ひとりがつくる

「私の時代」だ。

 そうやって想像するだけでワクワクしませんか」

 

「もやもや」したのはここだ。書いてあることが間違いか?と問われるとそうとは言えない。なぜならば、先ほどわたしが導き出した「女であることを意識しなくても自由に生きられる社会」とはまさしく、「時代の中心に男も女もない」「私の時代」だからだ。ではなぜ「もやもや」したのか。この違和感の正体はなにか。端的に言い表すことは難しい。

しかし一つは、「そんな女の時代なんて”永久に” 来なくていいと”私たち”は思う」と、”私たち”という女性全体を表すような主語を使って強い否定をしてしまったことだと感じる。

そしてもう一つ、これまで長い期間歴史の中で女性が受けてきた不当な仕打ち、そしてそれらがまだ残っている現状をまるっと無視して「私はわたし」という大きなポジティブ思考にすり替えてしまったことだ。

究極目指すところはそこなのかもしれない。そこなのかもしれないが、これまで女性が命を張って、体を張って権利を一歩ずつ獲得してきたその過程や背景がまるっと抜けて、「時代の中心に男も女もない」という言葉が意味を持つだろうか?説得力を持つだろうか?

この文章を見た多くの女性は(もしかしたら男性も)「いや、これまで恐ろしく長い間が男性中心の時代だったじゃないか」と思ったのではないだろうか。「(これからの未来に)時代の中心に男も女もない。そんな社会が理想だ」といえば、また受け取り方が違ったかもしれない。しかし、この急展開だと、どうしてもこれまであった負の歴史をすべて無かったことにして、「私はわたし」だから「男女なんて重要じゃない!」というのはいささか軽い、違和感を感じるつくりなのではないかと思ったのだ。

 

ここまで見て、そして自分で読んでみても自らの矛盾した感情と発言にびっくりしている。「女として差別されたと思ったことがなかったのに、テレビで報道されるようになってかえって居心地が悪くなった」と言ったと思えば、過去の女性が受けてきた差別の歴史が忘れ去られることに違和感を感じている。本当に矛盾だ。

でも、わたしはきっと自分を「女性」としてではなく、「人間」として扱ってほしいのだと思う。人間として、頼られたり、ある時は助け合ったり、評価されたいのだ。しかしそういった未来を目指すにあたって、過去にあった歴史を都合よく、女性が人間として認められずに生き、生を終えていった多くの人のことを、忘れてしまうことは決してあってはならない。

「女」だから差別されることはこれから先の未来にあってはならないけれど、「女」だから差別されてきた人たち、そしてそこに抗い続けた人々のことを、これは女だけでなく男も、そうでない人もすべての人が忘れてはならない。

 

はじめにわたしは「この広告を批判する一部の人たちにもやもやした」と言った。そう感じた理由の一つとして、これが「西武という大企業が打ち出した広告である」ということだ。

まだ社会にでて働いたことのない身で分かった風なことを言うのにはためらいがあるが、「これを最初に作ろうと思った人が意図したことはなんなのだろう?」ということを考えたい。きっと何度も会議を重ねるうち、いろいろな意見がでてきただろうし、広告というものの性質上、どうしてもキャッチーで目を引くもの(強い言葉や写真)が強かったり、様々なしがらみがあったのではないかと想像してしまう。(あくまで想像だが)

わたし自身、一人で何かを書いていても(こんなことが言いたいわけではないのになあ)ともどかしい気持ちになるときもある。まして、広告という「短い文章」の中にこんなに根深く難しい問題のニュアンスをすべて詰め込むことはとてもとてもハードルが高いことだと思うのだ。だから、こういった広告は「受け取る側の考え方」によっていいようにも、悪いようにもとらえられてしまうのだと思う。もちろんみんなが嫌な気持ちにならない、素晴らしい広告を作れたらそれが素晴らしいと思うし、実際にそういう広告を出している企業だってあるかもしれない。今回の西武の広告に足りない部分があったことも事実だとも思う。だけれど、その足りない一面だけに着目して、そこばかりを批判するのは少しおかしい気がするのだ。

悪い側面やその印象だけにとらわれて、そのすべてを否定するよりも、この広告はなにを訴えかけたかったのだろう?という意図について、より多くの人に考えてみてほしいなとしみじみわたしは思う。

パイ投げの写真に拒否反応を覚える気持ちもわかるけれど、「この広告のどこがおかしいか?変なのか?間違っているのか?」と批判的に目を凝らして見ることをやすんで、その意味と自分の考えをぜひ冷静に見つめなおしてみることに意味があるときもある。私自身もやもやした部分もあったが、深くその意味に向き合ってみると「なるほど、こういう意図だったのかもしれない」と理解できた。

 

わたしはこれから西武の広告を目にするたびに、女性に関するニュースを見るたびに、この広告について考えたことを思い出すだろう。普段言葉にしなかった違和感について考える機会を与えてくれたという意味で、この広告作りに携わった方に感謝したいと思った。