「優しい」と言われたくない

 

昔から「優しい」という評価を受けることが多い。私はそれがすごく嫌だ。優しいのほかに、別の評価も付け加えてくれるのなら良い。でも、真っ先に優しいという評価をされるとき、自分を否定されたような気持ちになってしまう。

ADHDの診察を受けるにあたって、小学校の通信簿・母子手帳などが必要となる。棚の奥から引っ張り出してきた通信簿の「行動のようす」の欄ではほとんど「思いやり・協力」「勤労・奉仕」の欄に◯がついていた。

「優しい」「奉仕の精神」と人を評価をするのはひどく押し付けがましく、残酷だ。少なくとも私はそう思う。人の言うことを聞く、人のためになにかをすることが評価されるとするならば、私の内面自体の評価はされていない。「私自身のいいところはないということになるのでは」と思ってしまうからだ。自分の唯一の価値・魅力が優しいことであると人から押し付けられれば、人に優しく人の言うことや考えていることを常に考えることでしか自分の価値を見つけられない。自分のやりたいことやわがままを押し通すことは自分を否定することにつながるのである。

「優しい」と言われるとことは「優しくあれ」と言うことと同じだ。世の中には周りから言われる「優しいの呪い」にかかって、優しくいざるをえなかった人がたくさんいると思う。なぜ常に他人に優しくあらねばならないのか。一番優しくしなければいけないのは自分だ。なのになぜ、人に優しくすることを私だけが一番に考えなくてはならないのか。

人に優しくあることが無意味だとは思わないが、それは人のパーソナリティを一つの言葉で表現するには物足りない言葉に思われる。実際、ストレングスファインダーを受けて出た結果の中に共感性や調和性、親密性の要素は一つとしてでてこなかった。当たり前だ。私は自分で自分のことを優しいと思ったことは一度もない。ありのままの自分を否定されたくない。優しくない自分だって自分だ。もっと自分で自分の好きなところがあるのに、それが人に伝わらないのはとても悲しい。