言葉をどうとらえるか 西武の広告から感じたこと

少しタイミングが遅いような気もするが、西武が出した例の広告について思うことがあったので文章にしておきたいと思い、PCの前に座っている。きっと新しいことはなにも書けない。二番煎じまみれだろう。それでも自分の、広告を目にした時のモヤモヤとそれを批判する内容の発信を見た時のモヤモヤ。この二つの一見矛盾するこの感情を文章化して整理しておきたい。

 

自分の思ったことをすごくシンプルに抽象的に言うならば

「(広告の)内容に賛同した部分も違和感を覚えた部分もあったが、それ以上にこの広告に対する一部の批判的意見にモヤモヤする。」

ということになると思う。だから、今になってこんな未練たらしく文章を書いているのだ。

なぜ広告自体より、批判にモヤモヤしてしまうのか?それをすぐ言葉にするのは難しい。ちなみにここでいう一部の批判というのは「すべての批判」ではなくて、批判の中の一部だ。的を射た批判と思うものもある。しかし、批判することの100倍、意図することを100%伝えられるようなものを作ることのほうが難しいと思うから、批判する前でもした後でも、一回落ち着いて自分がそこから何を感じたか?考え直してみるのもありなのではないかと思ったのだ。

少し話が逸れてしまっているので、そもそも私が広告を見てどこに違和感を覚えたのか?ということについて書きたい。

 

「女だから、強要される。

 女だから、無視される。

 女だから、減点される。

 女であることの生きづらさが報道され、

 そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。」

 

ここまで読んだとき私は正直今まで理由がわからないままに感じていた居心地の悪さの正体に気が付いたような気がしていた。細かい言葉選びではなく、ニュアンス・感覚として、女としてここに書かれていることは私が「女性」に関して報道されるたびに感じていた違和感の正体なような気がして、はっとした。

これは私の感じたことで、家庭環境が影響しているのだと思う。

生まれて22年間、親から「女の子らしくしなさい」「女なんだからそんなことはするな」と、女を理由になにかを制限されたことも、違和感を感じたことも幸いなかった。多感な12~18歳を女子校で自由に伸び伸びと生活させてもらったこともあって、男性と女性との間に何か大きな隔たりがあることを、教科書や数字上で理解しながらも正直身をもってはわからずに生きてこれたのである。

そんな中、テレビで「女性」の権利が侵害されていること、まさしく「女だから」受ける理不尽な仕打ちが報道されるのを見て、なんとなく肩身が狭いような居心地の悪さを覚えていたのだ。

自分はこれまで自由に生きてこれたと思っていたのに、そうではなかったのかもしれない。生きづらいですよね?と間接的にメディアから語りかけられるたびに「生きづらい女という性別」という記号を意識させられていたのかもしれない。無意識に その括りの中に自分を押し込もうとしてしまっていたのかもしれない。

『そのたびに「女の時代」は遠ざかる』

いろんな解釈ができる言葉だと思う。正直、「女だけが優遇される時代」とも読める。でも、わたしは最初にこれを読んだとき、この女の時代というのはわたしが求める、自分が「女」であることを意識しなくても自由に生きられる社会である、と解釈した。だから、この文章を読んだときに自分のモヤモヤの答えを見つけたような気持になったのだ。

このあと、この広告は以下のようにつづく。

 

「今年はいよいよ、時代が変わる。

 本当ですか。期待していいのでしょうか。

 活躍だ、進出だともてはやされるだけの

「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。」

 

「時代の中心に男も女もない。

 わたしは私に生まれたことを讃えたい。

 来るべきは一人ひとりがつくる

「私の時代」だ。

 そうやって想像するだけでワクワクしませんか」

 

「もやもや」したのはここだ。書いてあることが間違いか?と問われるとそうとは言えない。なぜならば、先ほどわたしが導き出した「女であることを意識しなくても自由に生きられる社会」とはまさしく、「時代の中心に男も女もない」「私の時代」だからだ。ではなぜ「もやもや」したのか。この違和感の正体はなにか。端的に言い表すことは難しい。

しかし一つは、「そんな女の時代なんて”永久に” 来なくていいと”私たち”は思う」と、”私たち”という女性全体を表すような主語を使って強い否定をしてしまったことだと感じる。

そしてもう一つ、これまで長い期間歴史の中で女性が受けてきた不当な仕打ち、そしてそれらがまだ残っている現状をまるっと無視して「私はわたし」という大きなポジティブ思考にすり替えてしまったことだ。

究極目指すところはそこなのかもしれない。そこなのかもしれないが、これまで女性が命を張って、体を張って権利を一歩ずつ獲得してきたその過程や背景がまるっと抜けて、「時代の中心に男も女もない」という言葉が意味を持つだろうか?説得力を持つだろうか?

この文章を見た多くの女性は(もしかしたら男性も)「いや、これまで恐ろしく長い間が男性中心の時代だったじゃないか」と思ったのではないだろうか。「(これからの未来に)時代の中心に男も女もない。そんな社会が理想だ」といえば、また受け取り方が違ったかもしれない。しかし、この急展開だと、どうしてもこれまであった負の歴史をすべて無かったことにして、「私はわたし」だから「男女なんて重要じゃない!」というのはいささか軽い、違和感を感じるつくりなのではないかと思ったのだ。

 

ここまで見て、そして自分で読んでみても自らの矛盾した感情と発言にびっくりしている。「女として差別されたと思ったことがなかったのに、テレビで報道されるようになってかえって居心地が悪くなった」と言ったと思えば、過去の女性が受けてきた差別の歴史が忘れ去られることに違和感を感じている。本当に矛盾だ。

でも、わたしはきっと自分を「女性」としてではなく、「人間」として扱ってほしいのだと思う。人間として、頼られたり、ある時は助け合ったり、評価されたいのだ。しかしそういった未来を目指すにあたって、過去にあった歴史を都合よく、女性が人間として認められずに生き、生を終えていった多くの人のことを、忘れてしまうことは決してあってはならない。

「女」だから差別されることはこれから先の未来にあってはならないけれど、「女」だから差別されてきた人たち、そしてそこに抗い続けた人々のことを、これは女だけでなく男も、そうでない人もすべての人が忘れてはならない。

 

はじめにわたしは「この広告を批判する一部の人たちにもやもやした」と言った。そう感じた理由の一つとして、これが「西武という大企業が打ち出した広告である」ということだ。

まだ社会にでて働いたことのない身で分かった風なことを言うのにはためらいがあるが、「これを最初に作ろうと思った人が意図したことはなんなのだろう?」ということを考えたい。きっと何度も会議を重ねるうち、いろいろな意見がでてきただろうし、広告というものの性質上、どうしてもキャッチーで目を引くもの(強い言葉や写真)が強かったり、様々なしがらみがあったのではないかと想像してしまう。(あくまで想像だが)

わたし自身、一人で何かを書いていても(こんなことが言いたいわけではないのになあ)ともどかしい気持ちになるときもある。まして、広告という「短い文章」の中にこんなに根深く難しい問題のニュアンスをすべて詰め込むことはとてもとてもハードルが高いことだと思うのだ。だから、こういった広告は「受け取る側の考え方」によっていいようにも、悪いようにもとらえられてしまうのだと思う。もちろんみんなが嫌な気持ちにならない、素晴らしい広告を作れたらそれが素晴らしいと思うし、実際にそういう広告を出している企業だってあるかもしれない。今回の西武の広告に足りない部分があったことも事実だとも思う。だけれど、その足りない一面だけに着目して、そこばかりを批判するのは少しおかしい気がするのだ。

悪い側面やその印象だけにとらわれて、そのすべてを否定するよりも、この広告はなにを訴えかけたかったのだろう?という意図について、より多くの人に考えてみてほしいなとしみじみわたしは思う。

パイ投げの写真に拒否反応を覚える気持ちもわかるけれど、「この広告のどこがおかしいか?変なのか?間違っているのか?」と批判的に目を凝らして見ることをやすんで、その意味と自分の考えをぜひ冷静に見つめなおしてみることに意味があるときもある。私自身もやもやした部分もあったが、深くその意味に向き合ってみると「なるほど、こういう意図だったのかもしれない」と理解できた。

 

わたしはこれから西武の広告を目にするたびに、女性に関するニュースを見るたびに、この広告について考えたことを思い出すだろう。普段言葉にしなかった違和感について考える機会を与えてくれたという意味で、この広告作りに携わった方に感謝したいと思った。

服を選ぶ 買う 着る 出かけるということ

 

ここ最近洋服が好きだ。昔はそんなこと思いもしなかったし、垢抜けないし悪目立ちしたくないというのが目下の課題だったから、とりあえず黒、紺、明るい色は着太りするから着ない。というのが私の服の選び方だった。

 

PC診断を受けたことをきっかけに、「自分に"似合う」を探し始めて一年半。ようやく、「似合う」はもちろん、わたしが「好き」なものはなにかという問いに答えを見つけ始めている。わたしがなりたかった垢抜けた、お洒落な女の子はどういうもので、完璧に近づくことは残念ながら色々な要素が違いすぎて難しいけれど、でも自分なりに寄せて行くことはできる。それが楽しい。

 

「レトロな雰囲気」「ちょっと変わったゴツゴツしたのアクセサリー」「アジア系雑貨にあるような派手な柄」が好き。

「曲線的で柄が大きすぎないもの」「ビビッドなカラー」「優しげな雰囲気のもの」が似合う。

相反するところもあるけど、取り入れることもできる。トップスにわたしが好きな柄モノを取り入れると少し顔から浮くけれど、曲線的なスカートやカバンに巻くスカーフになら使える。アクセサリーは大ぶりが得意だから、どんどん好きを取り込んで行く。暗すぎる色は全体を重たく見せるから、白やベージュ、明るいグレーカラーを混ぜ込む。黒と赤、赤と白のレトロ風の配色が好き。実はレースやリボンなどの甘い系も好きだからどんどん取り込みたい。

 

好きを自覚してから、洋服を見るのも楽しいし、選ぶのも楽しい。これはブスだから着られない、デブだから似合わない、と服を選んでいた時の強迫観念はなく、とても自由だ。確かに今でもわたしは決して美人ではないけれど、それでもそれなりに似合うものを理屈で選べているという自負があるからだろう。

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お金が無限にあればいいのになあ。

自分が好きな雰囲気に自分で寄せていけるように工夫をしたい。

 

誰かを好きになるということ

 

ずいぶん久しぶりにブログを書いています。自分がなんとなく最近思っていることを書きたくて。

わたしは同世代の子と比べて恐らく恋愛経験が少ない。中高は女子校で、男子との関わりはほとんどなく、大学に入ってからも非常に狭い、女の子しかいないコミュニティにずっといたため、4年間経ってもまだどう接すればいいのかわからないときがあったりもする。

 

彼氏は、大学1年生のときに一度できたことがある。はじめて異性と二人と出かけて、告白をされたという状況に、わたしは舞い上がっていたのかもしれない。

こんなわたしでも好きと言ってくれるんだから。これを逃したらこれから先に彼氏なんてできないかも。

そういう気持ちがあって、自分の本当の気持ちを問うてみることもせずOKしてしまった。でも、わたしは彼のことをぜんっぜん好きじゃなかった。

結局長続きしなくて、先輩と飲んでいるときに「どうして別れちゃったの?」と聞かれ、口から愚痴が止まらなくなって、「それって最初から好きじゃなかったんじゃない?」って言われてそのときはじめて、わたしは「はじめから彼のこと好きじゃなかったんだ!」ということに気がついた。錯覚だったのだ。自分が誰かを好きになる、という感情がわかっていなかった。

 

 

これまでのまったく人を好きになったことがないわけでない。わたしには好きな人がいた。しかし、そのときも私が自分の「好き」を自覚するまでには長いタイムラグがあった。

そのタイムラグを経てこの人を好きかもしれないと気づいた去年の秋、大学構内でばっったりその人を見かけた。その日わたしは適当な服装に適当なメイクにぼさぼさの髪で、「え、どうしよう」と心臓が高鳴った。とてもこんな姿で会うのは恥ずかしいと思った。バレないように、わざわざ遠回りをして正門へ向かって早足で歩き出す。

その帰り道、わたしはすごくすごく久しぶりでまるで初めてのように「これが好きってことなのか」と甘酸っぱい、気恥ずかしい思いを噛み締めたのだ。

結局その人とは今連絡を取っていない。実はもしかすると今でも好きなのかもしれないが、もう多分会うことも無いと思う。

今でも、あのときに勇気を出して声をかけていればよかったかな、と思うときもある。もう21歳にもなって、この奥手ぶりはどうにかならないものかとも思う。

 

いままで自分に彼氏ができないこと、いないことはまあ仕方ない(あまり友達多い方じゃないし明るいかんじでもないので)と思っていたが、そこまで切迫して作ろうという気にもなれずにいた。

しかし、最近新しく始めたアルバイト先で

「彼氏作らないんですか?」「男に興味ない感じですか?」「なんかすごく彼氏にそっけなさそう笑」

みたいなことを言われて、え〜〜そんなこの歳で彼氏いないのって変ですか!?笑 とびっくりしたのだ。いままでそんなことを周りから凄く言われたことってなくて、もしかしてすごく今までは恵まれた環境にいたのかもしれないと改めて感じている。今の時点でこんな感じで、これから先歳を重ねるごとにまだろくに恋愛もしたことないわたしに、「結婚は?」とか「子供は?」とかそんな問いが降りかかってくるのかと思うと、不安な気待ちになった。

もちろん、そんな他人の言葉に振り回されるだけ無駄だということはわかっている。わかっているけれど、その全てをふりはらえるほど私は強い人間でもない。

 

おいしい関係」という漫画を知っているだろうか。わたしはあれが好きだ。百恵ちゃんが織田さんを愛しいと思うとき、好きだと思うとき、なぜかわたしまで一緒に甘酸っぱ苦しい気持ちになる。人を好きになるっていいなあ、と純粋に羨ましくなる。(わたしの恋愛偏差値は小学生並みだ笑 ) そんな気持ちになれる日が、そして相手にそう思ってもらえるような時がいつかやってくるだろうか。それともこないだろうか。自分から動き出すのはとても勇気のいることで、正直どうしていいかわからないというのが本心だが、なにかを失敗しても笑ってすませられるうちに行動してみる他に方法はないのかもしれない。

 

 

クロッシング

クロッシングという映画を見た。

北朝鮮で元サッカー選手の父親が、病気の妻のため、息子と妻を残して薬と食べ物を探しに脱北することから物語は始まる。

1時間52分の上映時間の中で、何度もぼろぼろと涙を流してしまいそうになり、画面から目を逸らしてしまった。あまりにも救いがない。しかし、現実にこれは今起きているかもしれないこと、これから先にまた起きるかもしれないことだ。

 

この映画は2002年、25名もの脱北者がスペイン大使館に駆け込み、韓国への大量亡命に成功した事件をもとにしている。

脱北者100人以上に丹念に取材をし、実際に脱北を経験した人もスタッフで参加しながら、4年もの歳月をかけて作られたそうだ。この映画のショッキングな描写は、決して過剰ではない。

 

わたしがこの映画を見て一番強く思ったのは、優しいだけで何も知らないことは人も自分も傷つけることになる、ということだった。

父親のヨンスは心優しく家族を愛する善良な人だが、現実との距離のとり方が甘い。もちろん、その現実は彼が望んだものでもなく、たまたま不幸な境遇に置かれただけだ。それでも、彼があともう少ししっかりと現実と向き合い、人の言うことを疑いながら自分の頭を働かせることができれば、また違う未来が待っていたのではないだろうか。

この父親の一面を、後半息子のジュニにも見たような気がわたしはした。彼らは非常に善良だが、善良だからこそ人を救えないことを思い知ったような気持ちになって苦しくなった。

 

なにかを守るためには犠牲を伴わなければならない時もある。嘘をつき、相手を欺き傷つけなくてはならないときもある。自分が真っ直ぐであることと救うこと・守ることは必ずしもイコールにならないのだ。

 

わたしは夢見がちな人間だ。夢見がちでいいとも思っていた。しかしそれはわたしが今恵まれた環境にあるからで、夢だけを見て現実を疎かにすると、自分の手の中に当たり前にあると思うものをするするとすべて取りこぼす危険がある。しっかりと地に足をつけ、見たくない真実や理不尽に目を向けることで守れる何かもあるのだろう。

そういう意図でとられた映画ではないのかもしれない。ないのかもしれないけど、でもわたしは一番そういう風に感じた。

アンジュルム「十人十色」ライブビューイング感想

アンジュ 十人十色 個人感想

 

⚠️ 1時間くらいで思ったまま書き殴ったのをそのままのせてます。基本絶賛ですが言葉選びはご承知ください

 

和田彩花
あやちょの美しさをいままで1%しか理解してなかったことを思い知らされた1時間半。
顔の造形はもちろん、所作が全て美しい。仏なの?アンジュルムをまとめるリーダーとしての貫禄と誰より情熱的に激しく踊り歌う姿はもうあやちょとは恐れ多くて呼べない和田彩花さん・・・・・・・・・・・・
アンジュルムの大黒柱はやっぱりあやちょで、あやちょが与える影響は計り知れないと改めて強く実感した。
「変わらぬままそこにある真理」という言葉が宇宙一似合う和田彩花さん。大人の良い奴はリカコとあやちょという美女コンビでクラクラしました。

 

中西香菜
かななんはサブリーダーとしてグループをまとめようという気概をラストのメッセージから強く強く感じたし、これからも長くアンジュルムを支える一員として残っていくように感じた。
そして私の大ダイダイスキなええか!がかななんソロ〜〜〜〜!!!!!!!!!!神よ〜〜〜〜!!!!!!!ダンスも歌も下手であわあわしてたかななんが、ええか!なんてクソ難しい曲を一人で歌いきったことに感動した。綺麗なお姉さんになったなあ かななんの声はやっぱり魅力がある。

 

勝田里奈
りなぷ〜節が炸裂しててほんと面白かった。個人的にタケが全力疾走してるのに悠々自適で歩くりなぷーのカットが一番笑えた。
歌の聴きやすさは随一、さらっと難しい箇所もこなすしとりあえずりなぷーに任せておけば大丈夫っていう安心感がある。
りなかなお姉さんズ可愛かったです...コップリズム必死すぎおもしろ可愛かった。
最後の君だけじゃないさ...friends はりなぷーが一番よかった。バラードで活きる。

 

竹内朱莉
タケちゃん.......ほんと..........タケ沼が近い
タケちゃんの声ってなんか麻薬に近いものが入ってるよね?歌声も可愛くてまるくてとにかく可愛くて大好きだけど、
「二階席のみなさんげんきですかぁ!!!!!!!(赤ちゃん)(バブい)」
「なんか、すごい!!!!お客さんたくさんいるね!!!!!!」
って叫ぶ声が死ぬほど好きで1日中聞いていたくなる、今も聞きたい。死ぬときはタケちゃんの煽り包まれて死にたい。
あとダンスコーナーのキレ え!?!?ハロステ ダンス部の時とかから更に死ぬほど上手くなってない!?!?!、!?!?
前はアイドルの上手なダンスだったのが、完全にダンサーのダンスになってる キレとかトメとか体の使い方とか 三文字でまとめると爆モテ タケちゃんがいることで歌の安定感がググーーーンと上がる。あやちょが引っ張りタケりながしっっかり足元を固めてる感じが熱かった。最後のトークで、ずーっと青振ってくれてる人いて、そう!縦ふって!!!、!いた!!!!!!!(嬉しそう)(バブ)ってすごくタケちゃんらしくて本当に武道館がアンジュルムのファンで埋まったことが嬉しいんだなってこっちにまで伝わってきて嬉しかった。あとショートカットは昔の「タケちゃん」な可愛さと、中性っぽい魅力が溢れ出てて最高に"SUKI"で""Destiny""だった

 

室田瑞希
まずこの順番にもうむろたんがいることが泣ける ついこないだまで後輩ポジションだったじゃんむろたん・・・・・・・
めいめいの背中を見て、その後を継ぐような歌唱面になると決意したムロはもう後輩を根っこから支える先輩になったんだと感じて、これまで持っていたイメージが変わった。
セクシーな表現が多いアンジュルムのなかでさらに黒ギャル風の見た目なのに、くりくりした目が好奇心旺盛に輝いて、容姿は大人っぽいけど幼さすら感じさせるような雰囲気が目を引いた。爽やかで健康的な色気、かわいさ。ある意味一番少女性を感じたかも。
歌は苦しそうで自分に酔ってる感じが無くなってとても聞きやすくなっていた。やっぱり声質が抜群にいいなあ。

 

佐々木莉佳子
一番イメージが変わった。もう可愛い可愛い最年少の利佳子ではなく、名実ともにアンジュルムを支えるエースであり核。
歌もかっこよく魅せられ、表現力とオーラに圧倒された。背中の虎を従える17歳よ・・・・・・・・・
いつか「アンジュルム佐々木莉佳子」ではなく、いい意味で佐々木莉佳子アンジュルムにすらなってしまうのでは?と思うほど、今日見た莉佳子はカッコよく、今後更に大きくビッグな存在になっていくことを感じさせてくれた。
あと髪巻いてたほうが好き!
前髪なしストレートも美人が際立つけどウェーブした髪が顔にかかって本当に外国人みたいな美しさがあった。こんなにカッコよくて凄いのに、私はファンの皆さんの太陽になりたい、佐々木莉佳子というブランドを大きくしていきたいという実直で明るい内面に心洗われた。佐々木莉佳子17歳は凄いぞ!!!!!!!!!!!

 

上国料萌衣
これだけ顔が可愛くておしゃれな子達が集まってるのにそのなかでもかみこがダントツで目を引く。顔面が才能。
落ちサビかみこの落ち着かせない感というか、ドキッとひきこまれる雰囲気はなんだろう。本当に不思議な魅力のある女の子。
これまでエースで舞台でも二回連続主人公と、その人を惹きつける才能でど真ん中に立ってくることが多かったかみこだけど今回は落ちサビやウラハラのBメロなど、主役ではないからこそハッとさせられるような箇所を多く担当してそれが全体のいいスパイスになっていた。あとかみこは誰と組み合わせても面白そうだな!って思わされる(安定のりかみこにかみふな、かみたけ、かみかむなど)
難しい重要な歌割りをしっかり任されていて着実にスキルアップして信頼されてるんだなって伝わってきて嬉しかった。挨拶は変に気負うことなくいつものマイペースでちょっとお気楽なかみこで、かっさーと対照的で面白かった笑 黙るとエジプト絵画みたいな美しさなのに笑うと目と口が三日月みたいになってネコバスみたいなのがかわいい。

 

笠原桃奈
かっさーのビジュアルは一見正統派なんだけど、アンジュルムにおいてはむしろ個性で強みで違いなんだって感じた。赤が似合う。本当に似合う。最年少らしく生き生き元気に楽しんでやろうとする姿と大人っぽい姿の両面をみせてくれるのでつい目で追ってしまうし見てて楽しい アイドル性が凄いんじゃ........かみこりかこ船木とセンタータイプ(勝手にそう分類してる)が数多くいる中で最も主人公感が強い。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけどあやちょがいなくなったら赤はかっさーに引き継いで欲しいと思った.....とにかく熱い 情熱的
実質かっさーが一番キャリアが短いのにそれを一切感じさせずむしろ引っ張るくらいの勢いで、それは才能だけじゃなくてかっさーの努力の結果のはず 現状に満足せず努力し続ける姿こそかっさーの強い武器だと思う。

 

船木結
ふなきぃぃ〜〜〜😭😭😭😭😭結はまじめに書けない 感情的になるのを許して 私はずーーーっと結が空気を読んで、アンジュに馴染もう馴染もうと頑張っちゃってないかなっていうのが心配でどうなんだろう?ってずっとずっと思ってた 歌もむすぅのよさが出しきれないんじゃないか?って心配で心配だった でもキッッッチリ評価されて、ダンスメンに毎回選ばれて真ん中でダンスモンスターのリカコ、タケちゃんに負けじ劣らずと踊るむすぅがほんとうにかっこよくて、あ、むすぅはむすぅなりにここで色んなことを学んで成長してるんだと思って何も言えなくなった。うちの船木結は凄いんだぞオラ見たか!!!!!!という気持ち(誰に?)
キソクタダシクウツクシクはたけふな曲なのに完全に船木のソロ曲になってましたね...恐ろしい子 でもやっぱり私はカントリーガールズの船木結、どーだっていいの!の無邪気な結も大大大好きなのでそういう姿もまたぜひ見たい! オラは船木を応援すっぞ!!ラップ推せる

 

川村文乃
かわいい とにかく かわいい 顔が小さい すでにキングオブアイドルの風格 (衣装もあるけど)一人で一万人殺す昭和アイドルの風格がある こんなに声が可愛くてアイドルなのに眼光が凄い ライブにかける情熱と意志がガチだからに違いない 終始キラキラでほんっとうに心の底からステージに立つことを楽しんでくれていることが伝わってきて、きっとライブを見ていた全員に伝わったと思う アイドルを楽しんでくれることがオタクにとってどれだけ救いか......
かわむーもスタイル、顔立ち共にアンジュルムの中で良い意味で異質な存在感を持っていてつい目で追いたくなる 声がとにかくかああああわいいいいいい
ダンスで上げた足がとにかく美しい 彫刻?あやちょがいてもなおかわむーが一番スタイルいいと思わせるほど顔が小さく足が長く腕が長い

 

はーちん

 

 

はーちんのモー娘卒業発表から結構時間が経った。

私の中で、学業を頑張るはーちんを応援したい自分ともっとモーニング娘として頑張って欲しかったと思う自分が葛藤している。

ツイッターも、YouTubeも、「はーちんの決断にあれこれ口出しする厄介オタクなんなの?応援しろ!」という風潮が強くて、それはたしかに正しいんだけど苦しいので、ブログに逃げてきた。私が素直に思うことを書きたい。なので、人の決断に口を出すな!ということは言われたくない。これははーちん に対して言っているのではなく、自分に対してのつぶやきだ。

 

はーちんは加入してから凄まじい努力をしてきたと思う。歌もダンスも初心者でヘロヘロだったはーちんが体力オバケたちに囲まれて20分強心臓破りのメドレーをこなすのは歌割が少なくても文字通り死ぬほど大変だったはずだ。なのに、はーちんはその努力を表に見せない。いつも飄々とこなす。それがはーちんのイメージであり、モーニング娘。には珍しい常に一歩引いたところにいる女の子だった。控えめだけど頭の回転が早くて客観的に物事を見られる子、あんまり他の子とベタベタもしない、すごくさっぱりした女の子だ。

突然だが、私は勝手にこれから2年か3年後にはーちんがリーダーになると思っていたし12期以降のメンバーで一番向いているとも思っていた。アツいリーダーではないけれど、持ち前の柔らかさと冷静さで困難をいなすリーダーになると。

話が脱線したが、ここからさらに話を違うところに飛ばそうと思う。香音ちゃんのことだ。香音ちゃんの卒業は本当に幸せだった。彼女の卒業を悲しみはしたが、誰が引き止めただろうか。福祉関係の仕事に進みたいと言った時、すごく香音ちゃんらしいと思ったし心の底から応援したいと思えた。とても具体的に"夢"が伝わってきたし、なによりそれまでに数え切れないほどたくさんのものを香音ちゃんからもらってきた。歌割が少なくても、人気がなくても、持ち前の笑顔や歌声を通じてたしかに何かを懸命に私たちに伝えようとしてくれた。

ごめんなさい比較して優劣をつけたいわけじゃない。はーちんも香音ちゃんもどっちも同じくらい本当に大好きだ。ただ、この気持ちの違いはなんなんだろうって考えた時に、すごく素直な気持ちを口にすると、はーちんは頭のいい子で、周りのこと見えるからこそ自分のやりたいことより他のメンバーに見劣りしないように頑張り続けてきた3年半のように私には見えてしまった。もっとできなくてもいいからパフォーマンス面でわがままになってほしかったし、そうなれば人をもっともっと魅了できるポテンシャルがあるのに、常に自分の弱い部分やできない部分を人並みに揃えようと頑張ってしまってはーちんのいいところが隠れてしまっていたような気がしてしまう。圧倒的にそんな育て方をしてる事務所が悪い。事務所が悪いけど、でもはーちんは本当にモーニング娘。でやりたいことができたの?二度と戻ることができないモーニング娘でやり残したことはないの?凄いわがままだけどそう感じてしまう。

モー娘として与えられる影響力って本当にすごい。人をこんなに幸せにできる仕事はなかなかない。はーちんにとってモーニング娘ってなんだったんだろう?アイドルってなんだったんだろう?その答えを求めてしまうのは傲慢だろうか。高校に行けないのは問題だけど、大学はいくつになっても行っていい場所だ。大卒じゃないと今後の就職に響くとか将来のことを考えてとか、いろいろあるかもしれないけど、私は実際に大学に行っている身として、大学は自主的にこれを学びたい!という意志が弱い強いに関わらずなければほとんど行く意味がない場だと思っている。大卒という肩書きを手に入れるために単位を取るだけの場に成り下がるのだ。ではモー娘を諦めてまで行きたい短期大学でなにを勉強したいのか?その後さらに行きたい4大で突き詰めたいなにかがあるのか?それがはっきりと見えてこないからどうしても少しモヤモヤしてしまうんだと思う。それさえはっきりと見えれば私なにも文句はない。なんのモヤモヤもなく頑張って!と言えるだろう。ただ、大学でのビジョン・その先のキャリアがはっきり見えてこない、それは普通の19才は求められないことでも、やはりモーニング娘という特殊な状況に置かれたはーちんには求められる部分だと思うし、そのビジョンとモーニング娘との違いはなんなのか?得られるものななにが違うのか?ということをぜひ比べて考えてほしい。

別にそれが何だって構わない。アナウンサーでも丸の内のOLでもなんだって構わない。ただ、もう普通の女の子に戻りたいって気持ちだって構わない。「学業専念」というわかるようでわからない無機質な四文字より素直なはーちんの気持ちが聞きたい。それはわがままなのか。

 

スピッツ

 

私はスピッツが好きである。

しかし、筋金入りのスピッツファン というわけでもない。大学生になってから初めて空の飛び方/ハチミツ/インディゴ地平線/花鳥風月/惑星のかけらの5枚を千円でバイト先から一番近いTSUTAYAでレンタルした。

しかしいまさらスピッツを聴いてみようとはたと思い立ったのには理由がある。言葉選びのセンスが好きで密かに毎日更新を楽しみにしていたツイッターのフォロワーさんが、「草野マサムネ似の上司」が日々かっこいいことを呟いていたのである。

その「草野マサムネ似の上司」は少しだけ無骨ででも可愛らしくて少し優しい。らしい。草野マサムネ似の上司が輪郭を帯びるにつれて、草野マサムネ自身についての呟きにも目が止まる。どんな人なんだろうか。

 

正直詳しく知るまで私はスピッツを「なんか山羊みたいな、常にミント食わされてるみたいで全員草食ってそうなバンド」と思っていた。牙のないフワフワした同じような曲ばかりのつまらないバンドだと、チェリーと空も飛べるはず だけを聞いて。

そこからいちばん最初にどの曲を聞いたのかはっきりとは覚えてないが、これまでの印象を変えてくれたのは「スパイダー」だったかもしれない。

さびしい僕は地下室のすみっこでうずくまるスパイダー 洗い立てのブラウスが今筋書き通りに汚されていく

    あれ   思っていたより爽やかじゃない。思ったより人間臭い。あとなんとなくだけど拡声器持ってるだけですごくパンクだしロックに見えた。多分グループ魂遠藤ミチロウ」の影響だ。何度もスパイダーを繰り返し聞いた後、「俺のすべて」を聞いた。俺のすべてを三回聞いてまたスパイダーを聞いた。凄く人間だった。こんなに細くて中性的な声をした人なのに確かに男でどこまでも人間臭い人だった。そこが魅力だと感じた。

スピッツははじめから癒し系路線(これも少し語弊があるが)だったわけではない。パンクロックに憧れた線の細い青年と見た目のいかつい兄ちゃんの大学生二人がはじめたロックバンドがルーツだ。普通。凄く普通だ。それがいい。

インディーズ時代の曲がYouTubeに何本も上がっているのでぜひ見てほしい。インディーズ時代の"尖り方"が青くて必死で、たまらなく好きだ。なんとか憧れの音楽に近づきたい。理由は好きだから。背伸びして届かなくてダサくても好き でも好きだからこそ手の届かないもどかしさ。しかし、その必死に磨き育てた牙は、ブルーハーツによっていとも簡単にへし折られる。

そこでショックを受けて音楽活動を中止したのも好きだ。その気持ちが痛いほどわかるからだ。自分の好きなもので、自分よりも才能のあるやつがでてきたら悔しくて悔しくて暴れまわりたい気持ちになるし、自暴自棄になるし、なんなんだよ!と言いたくなるし、でも確実に自分よりいいものを作るし。と痒い気持ちになる。

 

スピッツはそこで腐らずに、マサムネさんの繊細で残酷な感性を活かした音楽づくりに方向転換し、大ヒットしたわけだが、ところどころには俺たちはロックバンドなんだ!という尖りを感じるのが私は大大大好きだ。譲れない意地、芯の部分。

去年発表された1987→にはインディーズ時代の「泥だらけ」という曲のイントロ部分などが引用されている。彼らはインディーズ時代を黒歴史にしていない、むしろ自らの大事なルーツとして、好きなものに誇りを持っている。

それが逞しく、格好良いと私は思う。