蠍座の女

 

最近流行りの「しいたけ占い」に一時期ハマっていたことがある。

わたしは11月生まれ、射手座ではなく蠍座の女だ。朝起きてまず#蠍座 #しいたけ占い でエゴサをかけてチェックし、寝る前にまたチェックする。これまでに投稿された蠍座の記事も何度か読み返した。

占いは、人を心地よく自らの自尊心をくすぐるようにできている。(ここではあえて言い切りたい) 読んで悪口を言われているような気持ちになる占いは誰も読まない。みんな、魅力的で、欠点と思えるような性格的側面も魅力の一つのように書かれた星座に自分を投影することで、自分も魅力的な人間であるかのように感じる。それは心地いいし、楽しいし嬉しいことだ。しかし反面、自分をその枠に無理やり当てはめようとして、違和感の正体もわからないままに無意識に強迫観念に駆られることもあるだろう。

さて、今のわたしはしいたけ占いが嫌いだ。理路整然とした反論理由はなく、ただ「生理的に胡散臭くて偉そうに語っちゃってるのが気にくわない」だけだ。だが、

蠍座の人は人を深く愛する傾向にある」

という言葉に強く自分との違和感を感じざるを得なかったことが、私が占いと大きく決別しようと思ったきっかけかもしれない。星座占いが100%自分と重なることはないとわかっていても、「人を深く愛する、愛さざるにはいられない」前提で好き勝手に言われると、天邪鬼が首をもたげてむくむくと心を占めていく。

いや、いろいろわかってる風に話してるけど、そもそも何を根拠にこんな話ししてるの?と段々イライラしてくる。とたんに書かれていることが、薄っぺらい、都合の良い言葉に見えてくる。そもそも当たり前だけど人間の性格が12種類で分けられるはずがない。分けられたらそれは人間ではない。

 

少し話が逸れてしまった。私が話したかったのは、しいたけが嫌いということではなくて、人とのあいだに壁を作ってしまう私自身のことだ。

今日友達と3人で食事をした。とてもおいしくて楽しい時間だった。私はJR、二人はメトロで、途中の道で別れた。私はあまり知らない土地だったので、ここをまっすぐ行ってああでそうでと懇切丁寧に説明してくれた。

「ありがとう、じゃあまたね」と手を振ると二人も手を振って、バイバイをして駅に向かって歩き始めた。そのことである。その時にわたしは「ああ、私はこのまま帰ってしまっても寂しくない存在なんだな」と素直に少し悲しくなった。帰りを惜しまれたかった。しかし、凄く、爽やかに、悪く言えば淡白にその別れはなされた。そして、そんなことを考えてしまう自分のエゴと浅はかさに落ち込み、自己嫌悪に陥る。

いつもはそこで終わりだ。軽く自己嫌悪になって、少しの自信を失って、でも結局人間は一人だからと開き直ることで自分を正当化する。

しかし今日はもう少し先まで思考が及んだ。私と周りの人たちとの関わり方について少し思い出した。友達に大学で友達ができない、いないと言った時、「人とのあいだに壁を作りすぎ」「仲良くしたいと思ってもシャットアウトされてる感じがする」と言われたことを思い出したのだ。これまで私が勝手に愛されない、どうでも良い存在だから執着されないと勝手に感じてがんじがらめになっていたものは、わたしが人に立ち入ってくることを許さなかったからなのかもしれない。

さっきの帰り道だって、よく考えてみれば淡白にあ、そうなんだ!じゃあね!とはじめに言ったのは私だった。そこでさみしいからまた遊ぼうと言わなかったのは向こうじゃない、私の方だ。私は結局自分は惜しんでいないのに、人には惜しまれたいのだ。なんて都合がいいんだろう。気づいてしまえば、自分の浅はかさが少しおかしい。

いつから自分のことを根掘り葉堀り聞かれたりするのが嫌いだろうか。自分のことを上手く話せないだろうか。頻繁にご飯に行く友達でも携帯は絶対に勝手に触らせたくない。潔癖なのでも、見せたくないものでもない。(見られて困るもの(例えばこのブログとか)はそもそも開かないだろう)でもきっと勝手に触られたら私は怒る。私はきっと人を深く愛さないし、知られたくないし教えたくないのに愛されたいし必要とされたいのだ。心のどこかに人の話に舌を出してお尻を出している自分がいる。性格の悪いひねくれものなのだ。

あ〜眠い。明日も早いので今日は寝ます。